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久しぶりにライフハックの集まりに参加してきました。八月からの退職に関するドタバタに追い回されて、ブログは滞っていましたが、そろそろ書き始めないと思い立ちました。今回はmehoriさんとYokonotesさんの共著によるモレスキンのファンのミーティングに参加しました。まだ、使い始めて日も浅いので、それはこっそりと行ってきました。はずなんですが、非常に濃いメンツに囲まれる結果となりました。


概要


今回の場所は東京カルチャーカルチャーというオシャレな場所で、普段のセミナーとはまた違った空気に包まれていた。
最初は、堀さんからモレスキンに関わる誤解を解いてから、モレ本についての解説となり、立ち読みしかしてない自分にはいい復習になりました。拘らずに色々な事が書ける、そこにモレスキンの魅力があるという事でした。
続いては、文具関係の歴歴お三方の登壇。土橋さん、美咲さん、文具王のお三方です。文具王のモレスキンは、何か要塞のようにガッチリとした感じ。美咲さんはオシャレな感じで、仕事できる男を醸し出し。土橋さんは隠密のように目立たずにでも細かい気配りの感じさせるものでした。印象的だったのは、文具王が作った特注のアクリル板ではなく(特注で作るものなのかと思いましたが)、「モレスキンは、自由のように見えて、不自由だ。不自由だから、楽しい。」という言葉です。フォーマットがない分、何を書こうか考えたり、高級という事で尻込みする事もあるからでしょう。それでも、結構意外な言葉でした。

そこからは、集められたモレスキンのご紹介。どれも個性豊かなものが揃いました。特に始めに紹介された「手帳王子」こと館神さんは、SDカードに紹介された記事やラジオの音声を保存して貼ることで、モレスキンをインデックスと化す大胆な方法を熱弁されてました。確かに中身が分からなくなってしまいがちなSDカードに、そんな回避方法があったなんて。でも、パソコンの中にデータ入れっぱなしではいけないのかな。モレスキンにはパス名を書いておくという手はどうなんだろうか。
BECKさんもほぼ日手帳とのダブル使いを披露し、佐々木さんは娘の記録を残し、大橋さんはマンガネタを書いている。
他にも、モレ本編集者の市川さんは、ノート一つをくり抜いて付箋入れにするという贅沢な方法をとり、グルメ日記あり、スタンプ押してたり。特に切り絵は素晴らしかった。影も計算しているなんて、とてつもないな。本当にモレスキンが一つの作品になっている。


だから、モレスキン!

モレスキンに向かっている人は、みんな子供が落書きをするような目をしている。ヨーコさんも最初はお父さんの手帳に落書きをする事から始まったから、そんなに特別な畏敬があるわけではなく、自然と書いていける。書く事に悩む人がいる一方で、全く悩まない人もいる。高いから、紙質がいいからと、物怖じするのは必要ないんだ。子供のラクガキって、大人から見れば確かに下らないかもしれない。でも、それが始めてパパとママを書いてあったり、感じた事を絵に書いていたり。そういうのは大人になると忘れてしまうものだ。でも、モレスキンに書いておけば、時が経っても残っている。あの時はこんな事があったねと、家族で話せる。ラクガキに失敗も成功もなくて、ただ二度と得れない思い出が詰まっている。ユビキタス・キャプチャーなんて堅苦しい言葉を使わなくても、子供が自然に書いていける様にしてあげたい。子供の頃の写真もまた鮮明に記憶を思い出させてくれるが、またモレスキンに書くというのも格別だ。


得た物


書く、と云う行為に人は何を求めるのだろうか。壁画に然り、何千年も前から人は書くと云う行為をしてきた。それをたかだかここ20年位で手書きからキーボード入力へ変えるのは、無理な話なのかもしれない。それは、慣れているだけではなく、何かがペン先から広がっていくのかもしれない。書きたいと思った事を書くわけではなく、筆の進むままに書けるのかもしれない。アーティスティックな事をするわけでなく、単に自分の中のイメージを出す必要があるのでは?それこそ、どんな形でもいい。出す事に意義があるだろう。
彫刻では彫る前から、出来上がりのイメージがそこにあると言われている。同じように何かを書く時にはすでに書き終わった時のイメージがそこにあるのだろうか。でも、書いてみて、イメージと違っていたなんて言う事はよくある。それは例えば苦手な絵を書く時なんかは特にそうだ。風景や写真と同じように書こうと思ったのに、出来上がりは似ても似つかないものになってしまう。だとしたら、書く意味はあるのだろうか。しかし、考えてみれば、昔の人は絵の具などの色を付ける道具はないし、そのままの色を再現する事は不可能だった。それに遠近法なども発明されていなくて、見たままを書けたというには無理がある。それでも書いていたという事に意義があるのではないだろうか。今の自分の感情を残したいという強い欲求がそうさせるのではなかろうか。だとしたら、そのままの絵を必ずしも書く必要はないのかもしれない。あくまでも、その場の状況を後で鮮明に思い出すための図解が出来ればいいのではないだろうか。言葉だけでは伝えるのが難しい事を、補うために絵ではなく図があればいい。だとしたら、少しは文字以外の事を書いていくのに抵抗がなくなるかもしれない。


今日はいい日だった!


守るべき物はどこにあるだろうか。斜めな視点から覗いてみようか。綺麗な事をモレスキンに残す事が僕らの使命なのだろうか。そうして、誰かに褒めてもらうのが僕らの望んでいる事なのだろうか。褒めてもらうのはとても嬉しい事だけど、それが本当の目的になるのだろうか。
それよりもうまく書けないからと書くのをためらってしまった事を悔やむべきなのではないだろうか。その事はその後思い出す事はないだろうし、誰かから伝えられてもその時の思いを再び味わうとは限らない。「娘がこのくらい大きくなりました。」なんて書いても、それがなんで感動したかを思い出すのは困難だろう。「僕の指を握る事しか出来なかった娘の手が、今では僕の手をしっかりと握り返せるようになりました。」と、せめてこのくらいは書かないと少なくとも自分には思い出せない。繰り返し言っているのであれば、思い出せるのかもしれない。そう思えると井戸端のおばさんが同じ事をいつも言っているのは、自分も相手も覚えていられるようにするためなのかとすら思えてしまう。
人生という大局で見れば、最後の時にこれまでの事を思い出せないのは悲しいだろう。その時のためにいい思い出しか残したくないというのであれば、それもいいかもしれない。でも、僕らは今の一分一秒を生きていて、明日も心地よく過ごしたいと思っている、はずだ。だとしたら、非常に他愛のない事でもちょっと書いてみればいいのかもしれない。とりあえずその日に何があったかから書き始めてみれば、いろいろと思い浮かびだせる事が出てくるかもしれない。いい日も悪い日もあるだろうけども、1週間、1ヶ月で見返してみればそれなりによかったのかもしれない。そうすれば、また次からも頑張れると思う。
という事で、自分が座ったテーブルの人、自分以外の全員にプレゼントが当たるという事になったモレスキンファンミーティングでしたが、おもむろに行ってよかったなと思う次第です。
(書いてる最中、チキンステーキに持ってあるコーンを盛大にまき散らしましたけどね!)

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