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知的生産に関して@kazumotoさんが面白い記事を上げられた。毒づいているという感想がこれに対してある訳ではない。でもって、@rashita2さんがそれに対して対論記事を上げられた。これこそ、面白いと言わずしてなんというか!?ブログ上でディスカッションするという事が起きている。懐かしきトラバだと、こういう事は意図されていたのとは少し違う。あれは関係ある記事を書いてますよと言っているだけで、有名な記事もしくは筆者に感想を述べているだけにしかなり得なかったから。それを読んだところで、そういう意見もあるのかと頷くか、関係した雑学が手に入るかといった所が少なくとも大多数を占めていた。でも、今回のはある問題提起に向けて、ひとつの解答を取り上げている。有意義な産物が出来上がる素地だ。
と、一人の読者として盛り上がっちゃったのさ。

となると、このヒートアップしつつある場に(勝手に思ってるし、勝手に仕立てあげているのだけど)加わりたくなるのは自分の性分なので、阻害しない様に生産的な内容でもってブログを書いてみようと思うのだ。


2人の討論の要点


そもそも、「知的生産」とは、梅棹氏が提唱した概念であり、ドラッカーがそう述べたのではない。となると、梅棹氏に依拠した話だ。新しい事柄を創造するという点において@kazumotoさんの解釈が間違っている訳ではない。すなわちは頭を使って成果物を出して行こうという事であり、知的生産の技術を学ぶ恩恵は、より良いものを出せる様になるか、より少ない力で同じものをだせるかということになるだろう。ただ過度に学ぶことに対して、@kazumotoさんは疑問を呈している。しかし『「目の前の仕事にいつもベストコンディションで取り組むにはどうしたら良いか」だけに収斂し た方が余程、知的生産性が上がるのではないかと思う』とは述べられているので、真っ向から否定しているわけではないと思う。なぜならその「ベストコンディションで取り組むには…」という行為が、知的生産の技術、ないしはライフハックとは言えるからです。


対して、@rashita2さんの意見としては、知的生産の技術は一般的なサラリーマンから抜け出すために必要なことであり、コア・コンピタンスとセルフ・ブランディングの2点を想像するものだとしています。そして、他の誰かが考えたことを活用してそれらに取り組んでいくというスタンスを取るのがいいでしょうとしています。また付随事項として、「頭を働かせる=知的生産」ではなく、アウトプットに重点が置かれているということも述べられています。そして、『「知的生産」=「Knowledge worker」ではない、という可能性はすこし抱えておいて下さい。』とも述べられています。他にも細々とありますが、重要なところはこれくらいでしょうか。


2人の意見を対比してみると、同じ答えを探しているようにも思えます。それは、今行うべき知的生産の技術はどの程度を行えばいいのかに対する答えです。正直な答えは、それこそDepend on youとなります。となるとお気の済むまでご自由に討論を…と傍観しても悪くはないのですが、知識労働者というドラッカーの示した概念が絡んでくるとなると一度整理してみようかと考えるのです。


知識労働者とは


まずもってドラッカーが唱える知識労働者とは、経営学における被雇用者の定義であるということを理解してもらわないといけないと思います。それは、経済学において人をなんと捉えるかが合理的判断を下すのであると定義したように、経営の視点に置いて知識活動に根づいている労働者が出現しましたよというのがドラッカーの提言になるということです。では、この提言にいたるまでは、もしくはドラッカーがこの知識労働者の出現に先立ってどの様に労働者を捉えていたのかというと、”Manual Worker”となります。これを「肉体労働者」と訳すのが適切であるかというのは、お二人の議論を見ているとその本来の意図を組みにくく感じられていると思います。なぜなら、「肉体労働者」とした時に肉体を使う作業を伴う労働者であると包括的に捉えざるならなくをえるからだと思います。では、今ある労働者は全くもって肉体を使用しないのかと問われるとそうではないと答えたくなるのです。結局、仕事というのは人による活動であって、人が肉体と精神によって構成されている以上、肉体を切り離して活動するという行為はそうそうに成しえないのです。では、”Manual Worker”とはなんなのでしょうか。それは手を「道具」として物質的な活動を成果に反映させる労働を行う人達です。パン屋でパンを作る人、出店でこけしや羽子板作っている人、そういった職人と呼ばれるような人たちです。ここでは何個生産したかという定量的な測定により成果に反映することが可能です。こういう人たちは現代の日本では稀であり、一般的なサラリーマンと呼ぶのははばかれます。この次に定義されたのが知識労働者かというと、もう一段階あります。それは産業革命によって機械が導入されて機械も使用して生産する労働者です。機械という高度な知識を要するように思えるものを使いつつも、それはやはり知識労働者ではないのです。彼らの成果もまた定量的な測定によって可能です。そして、テイラーの科学的管理法により彼らの仕事は分解され、分業されてもなおこの仕事をする労働者を用いて経営することは容易だったのです。何故ならば労働者という括りに置いては、決められたことを決められたとおりに実行すれば成果への反映、貢献が明確であるという認識に基づいていたからです。


では、知識労働者とはなんなのでしょうか。それは@rashita2さんが引用されていた部分にあるように、「知識」を主たる道具として、「知識」を生産する労働者です。ただ「知識」を発露する過程において、手もしくは機械を介在する必要性に駆られる場合があるので認識しにくいのかと思います。そして、その成果は定量的に測定出来る事なのですが、どの程度反映すべきかが認識しにくいので非常にややこしいのです。例えば、セールスマンは知識労働者なのです。そして、彼らの成果は何個商品を販売したのかという定量的な測定が可能です。ただ歴史を遡ってみると販売、もしくは営業というのは新しい分野であって、その貢献度合いは認識されていなかったものなのです。なぜなら、商品は作れば売れるという受動的な姿勢でしかなされていなかったからです。それは供給が需要を上回っていた時代であれば商品は必ず必要とされていたからです。しかし、今の時代そういうことはありません。同じような商品は溢れかえり、需要は供給を上回っています。積極的に自社の商品を売り込みに行かないと誰も買ってはくれない時代なのです。作ることが売れることでなくなった時、販売というのは売れるということにどの程度関与しているのでしょうか。原価に対して製造原価を除いた部分でしょうか。その原価は販売というのをどの様に規定して決められているのでしょうか。一般的な人件費がこのくらいだからと規定されているのでしょうか。それでは成果に由来しているとは言いがたいと思います。原価割れしないと売れない営業マンと、定価で売ることが出来る営業マンの成果は同じく商品を一つ販売したとして換算すべきでしょうか。当然のごとく前者は利益を出していないどころか、損害を与えているにもかかわらずそのように判断すべきでしょうか。このようなことに関して私たちはまだ勉強の途中にあります。私たちがそれを管理するにはまだ優れるに至っていないと、ドラッカーは述べています。


かいつまんだ、稚拙な説明であるかもしれませんが、ここに至っても猫も杓子も”Knowledge Worker”と言えるでしょうか。日本ではまだ”Knowledge Worker”は少ないと、ドラッカーは述べています。工場での作業員は言うまでもなくですが、御用聞きに伺えば売れると思っている営業の上司は、部下を知識労働者として扱っているのでしょうか。何が欲しいという消費者の声を聞いていないと、機会損失しているだけだとする論理がまかり通っている状態は、知識労働社会なのでしょうか。知識労働者は、ブルジョワジーの後継ではなく熟練労働者の後継だと述べられています。熟練であるとは他の労働者とは異なり無形化している高度な知識を用しているということです。何も文を書くのや難しい定理を解くのがその仕事ではなく、そのような専門化された知識や思想などを扱っているのが知識労働者なのです。またその高度化された知識を持つことによって、組織間の異動が容易になることもドラッカーの著書で述べられています。故に「なんの仕事をしていますか?」という問いを投げかける事が必要となってくるのです。


知的生産とは


さて、正直に告白すれば、私は「知的生産の技術」なる本を読了したことはありません。この記事を書くにあたって、ジュンク堂でさらりと立ち読みして、序章を読み、目次を眺めた程度です。残りは@rashita2さんが述べられていることに準拠しています。ということで、あまり断定的に述べられないかもしれません。どちらかというと疑問を提起する形で行きたいと思います。


「知的生産」は梅棹氏が述べられているものですが、まずこれは労働なのかという疑問を私は感じてしまいました。というのもアウトプットで終了しているからです。労働に置いてアウトプットは終焉なのでしょうか。これこれを作りましたとなることが成果なのでしょか。作って売れてが出来て初めて商売だと思います。作っても売れなければ成果とはなりません。医者もまたどんなに素晴らしい手術をしても、患者が助からないと意味はないことと同じです。これはあくまでも「知的生産の技術」という本に対する疑問です。@rashita2さんはそこからさらに踏み込んで「成果」にフォーカスしていると思います。ぱらっと見た限りでは梅棹氏がドラッカーによる提唱を踏まえた上で、知的生産が必要だと思い至ったようには書かれていないように感じました。「知識労働者」において必要というよりは、どちらか言えばプロレタリアとブルジョワジーに分類した上でのブルジョワジーに必要だと解かれているように見えます。そもそもの梅沢氏の職業がブルジョワジー、ないしは知識階級と呼ばれていたものに属すると思われます。そしてあくまでもこの本は知的生産を行うために必要な技術もしくは道具に付いて語られているわけで、知的生産をどの様に管理するかということに言及していない点でドラッカーとは異なるレイヤーを述べているように思います。道具は成果を上げる上で不可分の要素ですが、道具を持っていることが労働していることになるという言説は困難です。


こうなってくると、@kazumotoさんが知的生産と一般的なサラリーマンの仕事を結び付けられないと述べるのもわかる気がします。でも、一般的なサラリーマンがナレッジワーカーを指すとき、目標管理や時間管理と言ったものは必要になります。その点において知的生産の技術が類似要素としてあるので、応用することは可能だと思います。では、知的生産の技術に関することが巷に出回ってそれらを知らないと、ナレッジワーカーになれないかというとそういう訳でもありません。労働の形態はその属する仕事によって既に明確にされているのでそれに当てはまった場合ナレッジワーカーとなるのです。


知的生産の技術は必要か


イエスでもあり、ノーでもあると思います。生産性を上げるというのは、経営の観点からは重要なことです。浮いた分利益が上がるわけですから。ただ生産性というプロセスに対するアプローチのみを追求するのなら、一労働者としては必要性は薄いとも言えると思います。アウトプットが変わらないというのであれば、収入は変わらず収入に限って言えば問題ないのですから。ただ生産力を高めるというのは、一労働者であろうともしとくべきだと思います。収入は増えたほうがいいでしょうから。
どちらにしろ、成長を促すというのは人々が生き生きと働く上で必要なことであり、そのひとつの手段として知的生産の技術があるのだと思います。成長というのはもちろん成果を増やすということです。ここで成果とは「え、収入だけ!?」とか「え、出世のために!?」という話はややこしくなるので止めておきましょう。一定のアウトプットのために一定の手段を取り続けるような機械のような活動を人間はできないものです。活動におけるなんかしらの抑揚は、仕事を楽しくする上で励みになると思います。するとやはり大きな変化は臨まない限りは手段である知的生産の技術はもはや一般的なサラリーマンにおいてもパソコンやペンを使うのと同じレベルの道具であり、これがどの様に出来上がるのかとか、どういった成分であるのかということは深く考える人がいないように知的生産の技術に関しても考えなくて良いことであると思います。しかしながら、インクの切れたペンやキーボードの壊れたパソコンを使うのが正しい仕事の仕方でないように、使い方と補修方法については習熟していたほうがいいと言えます。


なお@kazumotoさんが蛇足で取り上げられていた英文は、方程式としては問題ないとしても結論はあくまでも皮肉と取るべきだろう。そこはきっと分かってらっしゃるとは思うのだけど、あの方程式からは違う風にも読み取れるのではないかと思います。それは上の生産性を上げるということを目指した場合、余計な知識はいらないってことだと思う。例えば、経理の仕事をしてもらうのに公認会計士と簿記何級という知識のどちらかを持っている人を採用したほうが利益の還元率が高いのかというと、簿記何級の人の方が賃金が安いのでそちらを採用するということだ。経理という仕事のアウトプットとしては公認会計士クラスの知識は余分であると読めると思う。それで喜ぶのは経営者なので、労働者当人としては仕事を取られるという可能性もあるので、間違っても勉強しすぎない方がいいとは言えないと思う。


まとめ


当初は@rashita2さんよりの意見を言おうかと思っていたのだけれども、書いているうちに中庸な意見になってきた。もしかしたら、勉強不足で分かっていない部分もあるかもしれないし、もちろんもっと本読んだほうがいいなと改めて感じてもいるし。ひとつ書いている中でハッキリと言えるのは、知識労働と知的生産は混同しないように気を付けなければいけないということ。そして、もしドラッカーの提言を含めて語るのであれば、これからの社会、これからの組織、これからの組織の中にある人間がどの様に変化していくのかに注意深く配慮していかないと語れはしないと思う。そして、2つの視点の違いをよく理解しないといけない。ひょっとすると、組織=個人という風に収斂されているのかもしれず、それを含めると非常に難解な問題であり、けれども組織として個人をどうするのかということと個人として組織にある自分をどうするかはなにか違うようにしなければいけないと思う。そしてそこにまでドラッカー先生は言及しているというのが素晴らしいことでもあり、僕らは困惑してしまうことでもあるのかもしれない。
そう、僕は個人としての課題を議論しているお二方を、組織としてというレイヤーから肉薄していこうかとするのが非常に面白いのだ。こんな煽りもまたお嫌いでなければ、そこのあなたも参加してみては如何ですか?

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